あるXジェンダーの方の日記で述べられているXジェンダーライフのひとこまに、産みたい気持ちがあるとあったことで、自分や女性の中には、産む、産まないを自分でよく考え、選ぶ自由がほしかった・・という意見をよく聞いてきたので、産みたいと願っている医学的男性と、産みたくて産んだのではない・・という医学的ノーマル女性の問題を解決できる将来的な、そんなこと悩まなくてもよい時代がくるといいなと思った。
どちらかというと、かく言う管理人も、結婚も、子供を産むということも、まったく望んではいなかったし、できるものなら、どうするか考える時間と、選ぶ自由がほしかった。けれど、今はどうかというと、現実、私はふたりの男子のお母さんである。後悔はしていない。授かった命を十月十日・子宮で育み、つわりも経験し、確実に育っていくわが子を、産む瞬間の不安もあったけれど、お母さんという偉大さを、肌で実感し、生命をこの世に送り出す神秘さを実感した。
あの出産の長いはてに、出逢う親子の絆と感動は、父親になる男子には残念だけれど、生まれ変わる時を待たなければ、経験することができないので、将来的に医学の技術が発展し、可能になる時がくれば、体験することもよいかもしれないと思う。
その経験を通して、我が身以外の存在を、我がことのように、何が原因で泣くのかわからない時、風邪をひいて苦しくて泣く我が子をみて、代われるものなら私が全部代わってあげたいと、心からそう思った・それこそが、母性なんだと実感し、私の中にも確実に母性が芽生えたことに気が付いたのだ。
だから、思う。母性も、父性も、実際にそれを経験し、子供の成長とともに、共に暮らし、共にごはんを食べ、共に笑い、共に泣き、共に喜ぶ、そんな日常のささやなか経験を通して、育まれ、育っていくものだと。
最初から、お母さんにも、お父さんにもなれるわけではないと思うのだ。少しずつ、少しずつ、経験を通して、自分で育てていくのではないだろうか。
子どもに関わる仕事をしていると、特に最近、ニュースで報道される・児童虐待や、まだ乳幼児であるにも関わらず、実の親に虐待され、命を奪われてしまう子供たちのことが気になってしようがないのだ。
信じられないのだ。母が、我が子を、父が我が子を、いらいらして、つい、かっ!っとなって、やってしまった。かわいそうなことをしてしまった・・と言い訳している場面をみると、吐き気がしてくる。
だったら、親にならないでくれ!育てるのが難しいのなら、いらいらして、殺すくらいなら、どこかの施設にあずけろよ!とむらぐらをつかんで、怒鳴りたくなる。
息子がよく言っていた言葉を思い出す。 親学校で、ちゃんと勉強して、あなたは十分に親になっても、子供を安全に、安心して、育てるだけのことが身についたので、卒業です。・・・というシステムがあればいいのに。簡単に、親にならないでくれ!と憤慨していたのだ。
まったく、その通りだと思ったのだ。 体は十分に大人になってはいるけれど、自分のことだけしか考えられない心がまだまだ未成年・お子様状態の大人が増えているんだろうと思う。
だったら、医学的男子であっても、子どもを産みたいと願っているXジェンダーの人に、産んでもらった方が、よほど、生まれてくる子は、愛されて、望まれて、生まれてくるのだから、ぜったい、そちらの方が、幸せなんだと、そう感じる。
親学校、現実それが社会の中で、浸透すれば、また、閉鎖的になってしまう父と母だけではない、親ではないけれど、生まれてくる子のアライになれる人たちが、家庭の中に介入し、親の負担・ストレスを軽減できる社会全体の問題として、取り組める環境になっていけば、今もどこかで恐怖に怯えている小さな命も、安心して、生まれてきても、よかったんだと思えるようになるのではないかと思う。
そして、命を失ってしまった子供たちの思いを聴くことはかなわないけれど、けれど、もう、二度と、ぼくたちのような悲しい子供をつくらないで・・・と。彼らの想いが聴こえるような気がする・だから、今も少しでも、救える命があるなら、関わりたいと思って、老体にむちうって、踏ん張っている。
そんな今日の、Xジェンダーおばさんの、つぶやきでした。おしまい。
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