『ふたつの立葵・その後』 心優しき行為と、心痛む行為

みなさん、おそようございます。 ? いえ、もう、お昼近くになってしまいました。 ><
お早うございますでもなく、こんにちは~?なのか、お昼近くになった時の挨拶は、はて、何て言えばよいのでしょう。
今日のお話は、ふたつの立葵の話題に、いたしました。
それは、ずっと心が痛んでいたからです。
ひとつの立葵は、どなたかが、下草を綺麗に取り除き、背がのび、重たくなったその幹を倒れないように、紐で結び、しっかり最後まで咲き切るようにしてくださる場所と・・。
もう片方は、いつのまに、たぶん、重くなってきたため、風で倒れかかったピンク色の立葵が、途中から、ボキッ!と、むしりとられたように、引きちぎられ、その引きちぎった花を、少し離れた場所に、無残にも、ほおり投げ捨てられていたのです。
片方は、花壇でも何でもない道路の交差点の場所。片方は、新しいお店の前。

花にも命があります。人に聞こえる声は発しませんが、それでも、一時は、綺麗に咲き誇り、通る人の目を楽しませてくれたはず。
なんだか、むりやり途中から引きちぎられ、ほおり投げ捨てられた立葵。
悲しくて、悲しくて、心の中で、泣いていた花おばさん。
むっかし、むかし、花にも、私たちと同じような感情があるのでは?と思った植物を研究しているご夫婦が、お家の花に、毎日、挨拶をし、音楽を聞かせると、どんな変化が現れるか、実験をしていたことが、取り上げられたことがあるのです。
”おはよう! 今日も、綺麗だね”と声を掛けると、わずかな電流が流れ、それを音に変える装置を通すと、音の高低が、まるで感情の抑揚に感じられるような反応を示していたのです。
ご夫婦によると、音楽の中でも、モーツアルトが好きであること、夫婦喧嘩して、気持ちが苛立っているとき、声をかけても、悲しそうな音になる・・と話されたいたことが、とても印象的に残っています。
花や、植物、木々もそうですが、特に人の手によって植えられ、育まれた花たちは、ただただ、人を癒すために存在しているんだと、聞いたことがあります。

もし、あなたが、花として生まれたとしたら、いくら、倒れかかっていたとしても、邪魔者扱いされて、無残にも、引きちぎられ、打ち捨てられてしまったら、どんな気持ちになるでしょう。
増えすぎて困ることがあっても、茂り過ぎて見通しが悪いからといって、ばっさりと切り取られるにしても、できれば、心の中で、ごめんね、許してね・・・という気持ちが、ほんの少しでも、湧いたとしたら、きっと、その花たちも、(咲き終わった桜の木も) 少しは報われるのではと、思う、今日この頃の花おばさんです。
幼い頃より、まわりの自然が、おばさんのお友達でした。
四季折々で、様々に変化するその姿から、多くのことを教えてくれていた植物たち。
春になれば、桜を愛で、秋になれば、紅葉を愛で、冬になれば、椿を愛で、私たちを楽しませてくれる花や、植物たち。
人には、その声は、聞こえません。
けれど、彼らも、ちゃんと、この世に生を受け、けなげにその短い時間を、咲ききり、次の世代へ命をつなごうとするその本能(遺伝子に組み込まれている生命の仕組み)を、忘れないでいたいと思う・花おばさんです。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。
*写真説明(
以前撮ったものです)最初の一枚は、下草を綺麗にし、倒れかかったその立葵たちを、しっかりと咲き切るように、陽もでとめてくれている場所の立葵たち。
後の2枚は、無残にも、引きちぎられていた場所の立葵です。
(。pω-。)。゚(゚´Д`゚)゚。 (;д;)(T_T)(´・_・`)
*本日の更新内容、不快に感じられる方いらっしゃいましたら、お詫びいたします。あくまでも、花おばさん個人の感覚な為、ご容赦くださいませ。